以前、「健康を司るもう一つの健康~社会的な健康~」という記事で、身体的な健康と精神的な健康だけではなく、社会的な健康も大切であることをご紹介しました。
人は一人では生きていけず、必ず人との関わり合いの中で生活をしています。
社会を構成する最小単位の集団である家族をはじめ近隣住民、地区の子ども会、学校、会社…あらゆる場面で社会的なつながりがあるのです。
だからこそ社会との良好な関係性、社会的な健康が大切になってくるのです。
それでは社会的な健康はどのようにして築いていけばよいのでしょうか。
そこで今回は、社会的な健康を手に入れる一助にしていただくために、脳や心の観点から、社会的な健康をご紹介してみたいと思います。
「1人の命」と「5人の命」、どちらが大切ですか?
突然ですが、あなたは「トロッコ問題」を知っていますか?
制御不能になったトロッコが線路を走っており、そのまま進むと5人の作業員がひかれてしまい、線路の分岐を切り替えると、1人の作業員がひかれてしまう。今あなたの目の前に分岐を切り替えるスイッチがあります。何もせずに5人がひかれる運命を選ぶか、5人を救うためにスイッチを切り替えて1人を犠牲にするか、どちらを選びますか?
この問題について、おそらく一度は向き合ったことがあるのではないでしょうか。
実は、この問題は1960年代に発表された『中絶問題と二重結果論』という論文に示された、中絶の是非を問うための課題でした。
論文の中では、あなたが制御できない路面電車の運転手の立場で選択を迫られる状況として描かれていますが、何もせずに5人の命を犠牲にするか、あるいは自らの手で1人の命を犠牲にするかが問われています。
あなたはどちらを選ぶでしょうか?
この問題に正解はありません。
しかし、どちらを選択するかで、以下の2つに分類できるとされています。
1.人を助ける積極的な義務(功利主義)
2、人が不利益になる行為を控える消極的な義務(義務論)
1の功利主義は、より多くの命を救うことが大切(5人の命のために1人の命を犠牲にする)という考え方です。
一方で、2の義務論は、結果ではなく道徳的な過程が大切(結果はどうあれ罪のない人の命を奪ってはいけない(何もせず5人がひかれる運命を選択する))という考え方です。
このトロッコ問題も究極の選択を迫られることになりますが、さらにこの問題を派生させた「陸橋問題」というものもあります。
制御不能になったトロッコが線路を走っており、そのまま進むと5人の作業員がひかれてしまいます。今あなたはその線路をまたぐ陸橋の上にいて、となりには太った紳士がいます。その太った紳士を線路に突き落とせば、その紳士に衝突してトロッコを止めることができ、5人の作業員を救うことができます。あなたはどうしますか?
トロッコ問題ではスイッチを切り替える行動をするか否かが問われていましたが、陸橋問題では直接紳士に触れて突き落とす、自ら手を下すか否かが問われているという点で異なります。
とある調査によると、トロッコ問題では、「5人の作業員の命を助ける」方を選ぶのが大多数を占めるのに対して、陸橋問題では、半数程度に留まるというのです。
これはいったい何を意味するのでしょうか。
陸橋問題のように直接的に手を下す場合では躊躇してしまうけれども、トロッコ問題のようにスイッチで間接的に手を下す場合はその躊躇がなくなってしまう、道徳的な思考が停止してしまうことを意味していると読みとれるのではないでしょうか。
これってSNSにおける誹謗中傷が社会問題化していることの背景にあると思いませんか?
面と向かって悪口を言ったり批判したりことはできないけど、指先で誹謗中傷することは簡単にできてしまう。
さらに言えば、ウクライナ侵攻でロシアが無慈悲にミサイル攻撃するのも、ボタン一つで発射できてしまうからなのではないでしょうか。
核保有国のトップが、ボタンを押すだけで核兵器が使用されてしまう可能性すらある、とても恐ろしい世の中ですよね。
かつてないほどに社会性や道徳心が求められる時代だと言えるのではないでしょうか。
この意味でも、社会との良好な関係、社会的な健康は重要だと言えそうです。
社会的な行動に寄与する「心の理論」
序盤から少々重たい話題になってしまったので、話題を変えて日常のありふれた場面に目を向けてみましょう。
「そのアクセサリーかわいいね!」
「いいでしょ!これいくらだったと思う?」
あなたも一度はこのような会話をしたことがありますよね。
お友だちから「いくらだったと思う?」と聞かれたら、あなたはどのように答えるでしょうか?
「(アウトレットって言ってたから、きっと思ったより安いんだろうな)」、「(安く買えたことを自慢したいのだろうから、ちょっと高い値段言っておいた方がいいよな)」と考えたりしますよね。
あるいは、「(デザイナーズブランドって言ってたから、全然わからないけど高いんだろうな)」「(安すぎる値段言ったら、きっと気分悪くするよな)」と考えたりするかもしれません。
このように相手の気分を害さないように「忖度」する場面は、日常のあらゆる場面に潜んでいます。
相手の気持ちや意図を読み取って、自分の行動を決定する心の働きを「心の理論(Theory of Mind)」といいます。
私たちは、社会と上手く付き合っていくために、その人はなぜそのように行動するのか、なぜそのようなことを言うのかといったように、その人の心を理解すること、理解しようとすることは非常に重要なことなのです。
そして、相手の立場になって考えるときには、自分自身をその相手に投影する必要があります。
このような心の理論を習得する過程には、大きく2つの説が提唱されています。
1.理論説:心の理論は、先天的、後天的いずれにしても、相手に当てはまる一般的な知識や理論を持っていて、これに基づいて相手を理解しようとする説。
2.シミュレーション説:自分自身を相手の立場においてまねをする、模倣することで相手を理解しようとする説。
いずれの説もその根拠となるような研究結果があるとされていますが、おおむね4歳くらいに心の理論を習得するようです。
2のシミュレーション説は、ミラーニューロンの発見によって、その根拠をより強くしたとされています。
ミラーニューロンについては後述します。
信頼関係を築く「ミラーリング」と「ラポール」
神経言語プログラミング(NLP)という技法が、日本でブームになったことがありました。
NLPとは、心理学や言語学の観点から、人間心理やコミュニケーションを体系化することを目的とした学問領域、心理療法のことです。
そのNLPの中で、代表的な技法の一つが「ミラーリング」と呼ばれるものです。
ミラーリングとは、その名のとおり鏡で映したかのように、相手の動作や言葉などをなぞる(まねする)方法のことです。
視覚的なもの(身振り手振り、仕草、表情、姿勢、呼吸のペース等)から聴覚的なもの(声色、テンポ、話し方等)まで、相手に合わせてコミュニケーションを図るのです。
そうすることで、相手は無意識のうちに自分と近しい人だという感覚を持ち、親近感や安心感を覚え、「ラポール」を築くことにつながります。
ラポールとは、自分自身と相手との間の信頼関係や良好な心理的結びつきのことで、コミュニケーションにおいて重要なカギとなるものです。
ただし、相手が「まねされている」と感じると、「バカにされている」といった不快感を抱くなど逆効果になる可能性もあるので、やりすぎないように注意が必要です。
あくまでも自然体で行うことを心がけることが大切なのです。
ものまねのエキスパート「ミラーニューロン」
先程心の理論のシミュレーション説でご紹介した「ミラーニューロン」について、あなたは聞いたことがあるでしょうか?
ミラーニューロンとは、(実際か映像かは問わず)自分自身になじみのある動作を見るとき、自分が実際にその動作を行うときの両方で活性化する神経細胞のことをいいます。
人が動作するのを見るだけで、自分が動作を行っているかのような活性化をするため、ミラーニューロンは、別名「ものまね細胞」とも呼ばれています。
スポーツ選手は、よく映像を見てフォームを確認することがありますが、脳の中にその動作のフォーマットがあるので、自分が動作を行っているかのようにシミュレーションすることができるのです。
また、ミラーニューロンは動作だけではなく、感情までコピーします。
相手が悲しい顔やつらい顔をしているのを見ると、こちらまで悲しみやつらさを感じてしまうのは、このミラーニューロンの働きによるものと考えられます。
ただし、脳の中にそれらのフォーマットがなければミラーニューロンは機能しないため、未知の動作や感情はコピーされません。
私たちは、社会との良好な関係を築くため、社会的な健康を手にするためには、その場の社会的環境に順応する必要があり、そのためにミラーニューロンは不可欠な役割を果たすものです。
ミラーニューロンによって、相手の行動を認識して、まねして、その意図や感情を理解することができるのです。
ミラーニューロンの中では、「私」と「あなた」は密接にかかわり合っているのです。
子どもの社会性を育む方法
私たちは、関わり合う人々とお互いにまねして、動作をシンクロさせる傾向があり、そのようなシンクロが社会的なつながりを育てていくとされています。
実は、子どもが社会性を育む過程にもこのようなことが関係しています。
ここに、おもしろい実験があります。
遊んでいる子どもたちに対して、大人がそれをまねする場合とそうでない場合を比較し、子どもがどのような行動をするのか調査されました。
結果は、大人にまねされている子どもたちは、そうでない子どもたちよりもとても多くの社会的行動を見せ、大人とのかかわり合いの強い遊びをしていたというのです。
さらに、大人にまねされていた子どもたちは、そうでない子どもたちと比べて、大人に近づき、寄り添い、触れ合う時間が長かったのです。
子どもが遊んでいるときに、「一緒に遊ぼう」と言って、大人が自然な形で子どもの遊んでいるように身振り手振りをまねする。
そして徐々に、「これできる?」と言って、今度は子どもが大人のまねをするように誘ってみる。
このようなお互いのやりとりが、社会的なコミュニケーションを向上させていくのです。
ものまね細胞「ミラーニューロン」は、子どもたちにとって、将来の人生を大きく変えるような社会性を育んでくれるかもしれません。
子どもが遊んでいるときに、スマホをいじったり、話半分で聞いたりしていませんか?
しっかりと子ども向き合う時間をつくることが、子どもの未来をつくることなのです。
社会性を磨いて社会的な健康を手に入れよう!
今回は、社会的な健康を考える上で重要になってくる脳や心についてご紹介しました。
ここまでお読みいただいたあなたなら、重要な事実に気づいたことでしょう。
そう、身体的な健康、精神的な健康、社会的な健康というものはそれぞれ独立して手に入れるものではなく、互いに密接不可分な関係にあるのです。
WHOがこの3つの健康を挙げているのは、どれか一つでも欠けたら他の健康も欠くことになる、ということを表しているのではないでしょうか。
身体的な健康、精神的な健康だけではなく、社会的な健康を手に入れるために取り組んでいきましょう。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
<参考文献>
・マルコ・イアコボーニ、塩原通緒訳、『ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学』、早川書房、2009
・坂井克之、『心の脳科学―「わたし」は脳から生まれる』、中公新書、2008
・小川真人、 高橋登、『幼児の役割遊び・ふり遊びと「心の理論」の関連』発達心理学研究/23 巻 (2012) 1 号、https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjdp/23/1/23_KJ00007979454/_pdf/-char/ja 、2023年4月19日閲覧
・青柳宏亮、『心理臨床場面でのノンバーバル・スキルに関する実験的検討―カウンセラーのミラーリングが共感の認知に与える影響について―』カウンセリング研究/46 巻(2013) 2号、https://www.jstage.jst.go.jp/article/cou/46/2/46_83/_pdf/-char/ja 、2023年4月19日閲覧